城下町とは?意味、歴史、特徴、役割をわかりやすく解説

城下町とは?意味、歴史、特徴、役割をわかりやすく解説

県庁所在地や10万人以上が住む大都市の多くが、実は近世以降の城下町にルーツを持っています。本記事では、そうした城下町にフォーカス。意味や歴史的背景、特徴、役割に言及していきます。

城下町とは何か?おさえておきたい基本概要

城下町とは何か?おさえておきたい基本概要

城下町は、領主や大名の居城を中心に発展した都市を意味します。起源は戦国時代にさかのぼり、山城の麓にある政庁の周辺に広がりました。その後、織田信長によって近世城下町の原形が造られます。

城下町に存在するのは、主に神社や寺院、武家地、町人地などです。詳しくは後述しますが、武士、商人、両者それぞれの居住地があることからも、城を防衛する機能と行政都市や商業都市としての性格を併せ持っていたことがわかります。

なお、江戸自体には陣屋(合戦時、軍兵が臨時駐屯する営舎)が代官所の周りで栄えますが、このいわゆる陣屋町も、広い意味では城下町の一部です。

戦国時代に端を発した城下町の歴史

戦国時代に端を発した城下町の歴史

前述の通り、城下町の起源は戦国時代にまでさかのぼります。とりわけ、近世城下町の礎と考えられるのが、織田信長が築いた安土城です。

織田信長は安土城下に武士を強制的に住まわせ、そこに楽市・楽座を設けるなどし、市街地の活性化を促しました。そして、その功績を受け継ぐ形で発展させたのが豊臣秀吉です。賑やかさはより増したといいます。そして江戸時代、ご存知の通り、徳川幕府の管轄となった大阪城下(町)は“天下の台所”として栄えていくわけです。

さて、お城は元来、山の中腹や頂上付近に建てられることが多かったのですが、豊臣秀吉が天下を握っていた頃には平野に、江戸時代に入ると、川の下流や海沿いに築城されるのも珍しくなくなります。ちなみに江戸時代初期には、約3000の近世城郭があったにもかかわらず、幕府による「一国一城令」や「武家諸法度」で大きく減少。築城、修理に厳しい制限が設けられ、明治維新の時点では藩の数に当たる280程度に留まります(陣屋町を含めても350程度に落ち着きます)。

そして、そこからさらに明治時代は廃城令や廃藩置県が執り行われ、大正時代を経て昭和では第2次世界大戦の空襲、失火による焼失もあり、江戸時代以前からの天守閣はわずかな状況になっています(2022年2月時、全国で12カ所)。

一方で現在、面影こそ消えたものの行政都市、商業都市としては変わらず機能しているかつての城下町も少なくありません。お城が無くなってもなお、そこには連綿と続く華やかさが残っています。

城下町の特徴と現代につながる布石

戦国時代の城下町は、城を防御する必要があったことから山と川に挟まれた小さな盆地に多くつくられました。そうした環境ではやはり、氾濫など災害のリスクが考えられるわけですが、江戸時代に入ってからは大規模な治水事業や土木事業が行われることになります。その後、それらの技術が発達していったのはいわずもがな。城下町がいかに重要であったかに加え、大名の権限もより強まっていきます。

城下町の特徴の一つは、武家地と町人地が壕によって分けられていたことです。身分が高い人ほど城の中心部の近くに居住していました。また、武家地や町人地があったことは現代の町名から判断することができ、たとえば千代田区一番町は徳川家康が城を守る旗本を住まわせた場所に当たります。加えて、“呉服町”や“鍛治屋町”など、お店や職業から名付けられた町名も、各地に残されています。

城下町周辺の土地の進化も顕著です。街道沿いの城下町は「宿場町」として、五街道とともに交通の便のいい場所へと変わりました。また、農村部の城下町は「在郷町」と呼ばれ、多くの特産品が生み出されています。それらはまさに、現代に伝わる伝統工芸品です。そして、舟運の発達した場所も今やお馴染みかもしれません。そう、ここは「港町」として活況を呈すようになります。

城下町の3つの役割

城下町の3つの役割

基本概要の章でも触れましたが、城下町が持つ役割は主に3つあり、防衛、行政、商業が挙げられます。以下、簡単に説明します。

防衛

お城の象徴ともいえる周りを囲む濠。これはまさしく敵陣営からの攻撃を防衛するためにつくられたものです。そしてそれは城下町全体にも及びます。たとえば、皇居外苑は、まさしくその名残をみることができる場所です。城下町を形成する住居の密集地や袋小路、丁字路も同じく防衛の役割を担っていました。

行政

城下町には住人の行動を統括する必要もありました。当時は、町奉行などの役人を中心に行われ、この場所を中心に、規律や規正が設けられるなどまさに行政の役割が果たされていたのです。

商業

城下町の繁栄は藩の豊かさと直結するため、大名は商業の発展にも力を入れました。壕を近くの河川や運河につなぐなどして人や物の流れを盛んにした工夫は、近代以降も都市として機能する基盤になったといえるでしょう。

現代に続く城下町

現代に続く城下町

「小江戸」や「小京都」と呼ばれる都市では、まさしく歴史ある風情が感じられます。以下、そうした代表的な現代に続く城下町をピックアップ。気になる方は、ぜひ足を運んでみてください。

姫路市

江戸時代初期の天守あるいは櫓などが国宝や重要文化財として残り、美しさから「白鷺城」とも呼ばれる姫路城。姫路駅から徒歩で15分ほどの場所にあり、その姿は山陽新幹線などからも見られます。その姫路城の周りには三重の壕。観光施設のある城下町との境界が明快です。

松本市

5層6階のお城としては最古の松本城。その東側と南側にあった町人地は江戸時代後期以降、人口が増えより賑やかにになっていきます。また、大正時代に建てられた洋風建築は現在も健在。総じて、レトロでノスタルジックな趣が感じられる街並みです。

仙台市

東北地方最大の都市である仙台市は、かつて仙台藩の城下町として栄えました。藩祖は戦国時代から江戸時代中期にかけて活躍した伊達政宗です。彼は1601年に徳川家康の許しを得て仙台に住み、仙台城と城下町の建設を行いました。大坂の陣以降は、運河の開発や北上川流域の穀倉地帯の開拓に尽力し、安定した農業生産高を確保。また、植林政策で緑を増やし「杜の都」と呼ばれる地へと発展させました。

城下町の名残は今もそこかしこで感じられます。

たとえば、名物菓子「ずんだ餅」や伝統工芸品の「仙台こけし」は、まさしくかつて賑わいを見せた仙台城下(町)が誇る文化の賜物です。

川越市

小江戸・川越と呼ばれる川越市も、代表的な城下町の一つです。1638年に大火が起きた後、幕府の老中で藩主となった松平信綱によって川越城と城下町が建設されました。その後、幕府の重臣が務めた藩主の功によって、商業地として発展。また、近くを流れる新河岸川は物流の拠点となりました。

そして現在。川越の町人地は「札の辻」を中心に広がり、周囲には当時の風景を想起させる建物が多く残されています。

小田原市

山と海に挟まれた場所にある小田原城は、かつて北条氏の拠点となった場所でした。江戸時代に入ると大久保氏が藩主となり、小田原の城下町は箱根の関所へと続く要所として栄えます。明治時代に一度その姿はなくなってしまいましたが、昭和期に再建が始まり、1960年には天守閣が完成。城の周りには石垣山一夜城歴史公園や数多くの史跡が残されています。

金沢市

加賀藩主・前田氏の居城の金沢城。今は金沢城公園や兼六園として人気です。周囲には前田利家・まつ夫妻が眠る尾山神社など、前田氏ゆかりの歴史的建造物が点在。また、せせらぎ通りの路地裏には武家屋敷の土塀が残されているため、江戸時代さながらの雰囲気を味わえます。

歴史と深く関わる城下町

切っても切り離せない歴史と文脈のなかで、城下町は今なお物語を紡いでいます。

黎明期の戦国時代から活況を呈した秀吉天下の時代。そして訪れる江戸時代の改革では、一国一城令や武家諸法度によって築城・改修が制限された傍ら、大名に多くの権限を集中させた結果、効率よく町作りが進展することにもなります。さらには明治以降の取り壊しや焼失。その後の順次整備もあって現代に至る再評価……等々、紐解くにはあまりに膨大です。

汲めども尽きぬ城下町の魅力。その地へ一度は訪れ体感することをおすすめします。