お城の作り方~ 縄張や普請等の知識交え、どうやって建てたのか解説

お城の作り方~縄張や普請の知識交えどうやって建てたのか解説

日本のお城が持つ歴史的な背景や美しさに魅了される人たちは少なくありません。同時に「この立派な石垣や天守閣は数百年も前にどのようにして作られたのだろうか?」と不思議に思われる方もいらっしゃることでしょう。

お城を作る(造る)ためには、選地・地取・縄張・普請・作事といった細かい工程が必要とされます。それは、たとえ環境や技術レベルが変わろうとも、過去から連綿と続く築城の基本です。

そういうわけで本記事では、お城の作り方について解説します。おさえておきたい各工程の概要はもちろん、完成までの期間や費用にも言及。お城への理解を深めるのに、ぜひ参考にしてみてください。

お城作りで最初に行われる「選地」について

お城作りで最初に行われる「選地」について

日本のお城は、遡ること大昔、唐や新羅からの侵略を防ぐために作られたのがはじまりです。その後、時代と共にかたちや目的が少しずつ変化してきました。が、前述の通り、主な工程は基本的に現代も同じです。まさに盤石の体制が長い歴史上、敷かれています。

そうしたなか、築城にあたって最初に行われるのが、お城に適した土地探しです。そう、俗に「選地(せんち)」と呼ばれる工程です。※地選(ちせん)と表現されることもあります。

たとえば、鎌倉時代、「城郭(じょうかく)」と呼ばれたお城(あるいは周囲諸々)は、基本的に山の上に建てられました。これは、お城の目的が「守りやすく、攻めづらい」ことを重視していたためです。後に続く室町・南北朝の時代でも山そのものの険しさを軸に選地が続きました。谷や尾根といった地の利を生かした天然の要塞は、まさに当時の象徴だったといえるでしょう。

ところで、お城の在り方を大きく変えた人物をご存知でしょうか。そう、かの織田信長です。彼によって建てられた安土城は、山の上ではなく平地に造られた「平城(ひらじろ)」です。それまで軍事的な要素が強かったお城に、商業的な目的が加わり、川や街道との位置関係を重視した選地が行われるようになりました。これによって、お城の周辺には商人が集まり、城下町として活気づきましたが、一方で「山城(やまじろ)」と比べると守りが弱くなるデメリットもあったようです。したがって、そこを補うために、天然の塀となる川がある場所や湿地などの特殊な地形が選ばれることもありました。

こうした時代性を紐解くと、いわゆる城下町の華やかさを取り入れつつも、あくまでお城の目的に当たる守りやすさや攻めづらさは、当時の選地基準として揺るぎなかったことがわかります。

お城の配置を決める「縄張」について

お城の配置を決める「縄張」について

選地に続いて行われるのは、お城の配置を決める縄張(なわばり)の作業です。ちなみに“縄張”は、実際の土地に縄を張って設計を考えたことからその名が付いたとされます。

この工程ではじめに決めることは「土地のどの場所にどれくらいの規模の本丸を設けるのか」です。これは、地取(ぢどり)と呼ばれています。

お城がある本丸の区画を守るためには、外側に「二の丸」「三の丸」も必要です。それらも含めて、堀・石垣・建物などを配置していきます。

代表的な縄張の種類

お城の構造は主に3種類。すなわち、縄張にはその3つのタイプが様式として存在するといえます。それぞれ時代の変遷によって生まれたものと捉えていいでしょう。

以下、端的に説明します。

梯郭式

山城が主流だった時代は「梯郭式(ていかくしき)」を用いられていました。これは、本丸を険しい地形に面して建て、後方を天然の要塞で守る仕様です。本丸の前方は二の丸や三の丸で取り囲みます。側面からの攻撃にも強い構造です。

輪郭式

平城が主流になると「輪郭式(りんかくしき)」の様式が好まれるようになります。本丸を土地の中心に配置して、その周りを二の丸と三の丸が囲います。本丸を幾重にも堀や石垣が囲っているため、四方をバランスよく守ることが可能です。一方で、お城の規模が大きくなる傾向にあるため、採用するには広い土地を要します。

連郭式

三つ目は、本丸をもっとも奥に配置して、二の丸と三の丸を平行するように並べた「連郭式(れんかくしき)」です。側面と後方の守りこそやや脆い印象ですが、前方からの攻撃には強く、シンプルとはいえ非常に理に適っています。三方を崖などに囲まれた山城や商業的な位置づけの強い近代のお城などでよく見られる様式です。

土木工事に当たるお城の「普請」について

土木工事に当たる「普請」について

縄張によって設計図が完成したあとは、工事が開始されます。工事は大きく2つの工程に分かれています。1つ目は土木工事の「普請(ふしん)」です。地形にあわせる山城では小規模に、守りを強固にしたい平城では大規模に実施されました。普請では、石垣や土塁で区切られた区画である「曲輪(くるわ)」を設けていきます(ちなみに曲輪は「廓」「郭」と表現されることもありますが、すべて同じ意味です)。

現代では土木調査の際、地盤の確認などを行いますが、当時は技術的にも困難であったため十分に準備できず工事が難航することは多々あったといいます。たとえば湿地などの特殊な場所で築城を試みた場合、地下水の問題が生じ、完成までに長い年月を要することになりました。

また、普請では大量の土や石を運ばなければならず、多くの領民を招集していました。基本的に米などを対価として支払っていましたが、長期化すると財政的な負担も大きかったようです。

建築工事に当たるお城の「作事」について

建築工事に当たる「作事」について

曲輪が設置され、石垣や堀ができると、次に建築工事に当たる「作事(さくじ)」の工程へと移ります。作事こそまさにお城を作る作業そのものです。左官や大工をはじめとする専門的な知識を持つ職人を雇い行われました。また、工事責任者も普請奉行から作事奉行へと引き継がれます。こうした連携を含め万全の築城体制の下、御殿や天守閣が作られるわけです。そして、でき次第すぐに城主一族が住めることとなります。

なお、お城の最も高い位置にある天守は、防衛面だけでなく権威の象徴としての意味合いも強く、実に個性豊かです。

また、多くの領民と職人が関わるなか、お城ができあがるまでの現場の雰囲気は、さながらお祭りだったともいわれています。とりわけ巨大な石材の運搬や石垣積みはどうしたって気合が入る場面だったようで、大名自らが前線に立ち、作業に携わる人々を全力で鼓舞していたのだとか。このような逸話からも、一大イベントであったことが容易に想像できます。

お城ができあがるまでの期間について

お城ができあがるまでの期間について

ここまで述べてきた通り、お城を作る工程は主に、選地・地取・縄張・普請・作事の5つです。

では、それぞれどれぐらいの期間を要するのでしょう。

結論からいうと、状況次第で大きく変わります。たとえば、まったく知らない土地で築城するとなると、数年単位で時間が掛かることもあったようです。また、戦に突入すれば、当然中断せざるを得ないでしょう。

安土城を例に挙げると、縄張以降は普請に約1年、作事に約1年の計約2年築城されています。また、名古屋城だと普請に約1年、作事に約2年の計約3年です。そこに選地や縄張に要する期間が加わります。無論、規模によって変わりますが、ほぼ普請と作事がメインになることを考えると、2、3年が一つの目安にはなりそうです。

ちなみに、佐賀県の肥前名護屋城は、わずか8カ月で完成したといわれています。豊臣秀吉が朝鮮出兵のために作った、五重の天守閣を持つ大城郭です。お城の面積は、当時、大阪城に次いで二番目に大きく、約17ヘクタールに及びました。短期間にもかかわらず、これだけ立派なお城となった背景には、潤沢な資金と人手があったようです。なお、その後の7年間で城下町に集まる人の数は20万を超えたといいます。

お城作りの費用について

お城作りの費用について

お城を作るための費用について、たとえば北海道の松前城では総工費に15万両掛かったとの記録が残されています。物の価値が現在とは異なるため、単純に換算はできないものの、約60億円という試算もあるようです。これほど高額ではなかったにしても、松前城を建てる費用の捻出は困難を極めたといいます。家臣からの献上や町屋からの寄付でなんとか築城に至ったとのことです。

また、江戸幕府の衰退と共に、地方の大名の財政状況も悪化していたため、幕末時代は築城を諦めることも珍しくありませんでした。裏を返せば、お城に掛かる費用はそれだけ莫大だったのでしょう。お城は、軍事面だけでなく、商業的な役割も担い、なおかつ権威の象徴です。だからこそ、相応の資金や人手がなければ、予算を組むにもあまりに無謀な額であることがわかります。

お城の魅力を知るのに、作り方を学ぶことは大事!

お城の魅力を知るのに、作り方を学ぶことは大事!

日本には魅力的なお城が数多く現存しています。そしてそれらは、外観や中の造りに終始するものでは決してありません。どのようにして建てられたかといった歴史や伝統技法、その工程を知ることで、さらに惹きつけられるはずです。

時間とお金だけでなく、職人たちの技術と労働力を結集させた賜物としてお城は今も大きくそびえ立っています。その形状からうかがえる戦略を分析するのも一興。時代背景に思いを馳せるのも楽しいかもしれません。そうこうお城の成り立ちに関する知識を身につけることで、新しい感慨が生まれるでしょう。そう、お城の魅力を知るのに作り方を学ぶことは、非常に大事なのです。